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虹色クレパス

コノブログハタレナガヒ。モジハナキソレハオモイコミデオモシロシ。チュウイセヲ。

ガジェットを詰め込め。君の瞬間の思考を形として吐き出せ。止まるな。しかし早足だ。走ると思考できん。走りながら思考はベストだが今の君はまだ腕ふりまくり足大股で体力無駄遣い走りが限界。知識が足りん。ガジェットが足りん。構造が足りん。意味がわからんだと。読まれなくちゃ意味がない。とにかく詰め込め。君を詰め込め。考えるな。そこの思考は無駄だ。止めることに思考するな。全て入るが前提。それが上での止めるであったり思考だ。まず吐き出せ。詰め込め。どっちみち君は露頭に迷う力しかないんだ。まず吐き出せ。ここに居るを変えろ。詰め込んで吐き出して。全裸で街を歩き面接し漫才するんだ。書けただ書け。全て君は裸。それが当たり前。それが上のおしゃれ。認識しろ。先ず入れ。挿入しろ。世界で君は裸。今君は服を着せられているね? それなら先ず裸。そっからおしゃれをする。最初の人間も今の人間もまたしゃれてるやつはそう。裸から演出。そんだけ。とにかく君は惹かれない。惹かれないからって惹かれようと小躍りするのは醜い。先ず裸で仁王立ち。そっからだ。そして話しかけなさい。海パン刑事を見習いなさい。あれこそ男。あれが普通。

千年幻想1900-2001

人はその場所の文字を口に表す。数字思想ダンス色々として。

僕は自分のちょっとした雑多な部屋が居場所だから出てくる言葉の綴りもそうたいそうなものは表せないけれどそれでも続けているよ。これぐらいしかできないからね。

 そんな僕は数字に弱い。数字をしっかりと自分のなかに表して居ない。1たす1は2。そう言う感じで算数も数学も適当にこなしてはきたが数字のことをちゃんとわかって通り過ぎたわけではない。1も2もしっかりとそれだと解って通ってきたわけではない。

 そんな僕の年代感覚。確かな年。僕は1996年生まれ。1995年の次の年。ちょっとネット等で調べると僕が好む場所は1995年あたりで区切られる。新時代の子かわたし。

  そんな96年に生まれたのいいけれど僕が生きた時代、感じた時代はそれ以降2000年代後半だし彼らの空気はおんぼろテレビの録画されたビデオや積もりにつもりどうしようもなくなった父の部屋の雑誌類等で味わっていたものの実際の空気は彼らのもの。だから知らない。今は2017。1996と1995は通り過ぎた。

  西暦はただ積まれていく。僕たちの生きる頼りとしてだけ存在する。生まれたばかりの無垢な子供は数字を絶対的な神として崇めていた。数字を見る度祈っていた。日は巡る。年は過ぎていき一年は死を迎える。また一つカウントが回る。嘘だ。この数字は神じゃなかったの。神は死なないはず。神は死んだ。2005は死んだ。2006を迎える。

 部屋に篭るを居場所としたわたしは西暦を崇めない。カレンダーは見ない。ただ時計がぐるぐる回っていくだけで何も変わらない。2016も2015も神になれなかった。それは絶対的だと思い込み裏切られてそっぽを向くことを決意した僕のせいなのか。ただぐるぐる年を教えるためだけに存在するのに知らない赤子が今日も信仰する巨大な西暦のせいなのか。まあ勝手に思い込んだほうが悪い。そもそもこじつけだよこの話。僕の論点が謎に馬鹿だ。

 そんな西暦にお馬鹿な視点を投げかける僕だけど2000も10を超えた今西暦になんらかの信仰が多く含まれるかと言うと答えはほぼNO。ただ今年いまなら2017だけに思いは込められ90年代の特に後半、千年を超える迎えるあの異常な西暦への愛情はない。ぽわぽわだ。まだ寝ている期間だ。人類全体が次の千年を迎えるまで10世紀の最初1世紀目。普通感覚的に4,5世紀まではお眠になるのが条理だから今は弾けて倒れたばかりか宙に浮いている最中だ。西暦により縛った人類全体の今は浮いている。当分の間今だけしか存在しない。君の年代だけがただ存在する。

 繋げてきた。世界を繋げてきた人々。今生きる僕より年上のお方たち、僕が子供だった頃大人だった人たちは西暦を知っている。世界の西暦を知っている。

 生まれた時だからこそまだ僕はちょっと身体に液は残ってはいるが知らない。雑誌とビデオの中だけの話だ。

それぞれの場所の中で大事な西暦はある。語られる物語はある。戦争に生きた人々の話に縛られた戦後の人々。その人々の話に縛られた僕の大人。その子わたし。

 何もないと言う人々の話を聞いた生きた。その話は面白かったと思う。ならばわたしは。何もないわたしは一体なにをするんだろう。

 何もないからこそ指針が必要だ。数字や言葉が必要だ。例え縛られていてもすぐ目を反らせば直ぐ失うけれど僕の前から存在して信仰したものから目を逸らすにはちょっと時間が掛かる。まあ別に構わないけれど。

 1000年はあの時重要でした。その文字は今を生きる僕にも確かに煌めいています。でも西暦は失いました。解き放たれました。今を生きましょう。時には昔に縛られながら。

 

 

 

 

 

 

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てきとう配慮は文章から失くし今わたしが思う君への言葉をただ残せ。それ以外に言葉は有り得ない。馬鹿な文章なんて要らない。ただ残せ。吐き吐き残せ。勘違いするな。今そこに在る。それだけが綴られるのだから。甘いものは要らない。確かなものだけが綴られる。下手な物真似邪魔なだけ。自身の感情を。死ね嫌い馬鹿みたいじゃない? それをただ遺せ。それだけができることだ。それだけが。

言葉がそれを呪縛していると思いわたしは違うと考えたが言葉は正しかった。なんて適切だ。それ以外になかった。

 蓄積を覆う言葉。言葉。蓄積しよう。そして言葉。

キャラもしくは人格、人々の性格

平沢唯個人が歩んで行く自意識、それを平沢唯として認識。その場合の平沢唯はただ作品内の平沢唯としてただ歩んで行く。そんな平沢唯は作品内で他者の認識にキャラ付けされるが平沢唯はそのイメージによって歩むことなく自分の意識内で生きている(少なくともアニメ一期内ではおそらく)。ただ平沢唯への他者の認識は作品内でイメージを少し大げさに描かれて私たちの元にやってくる。そしてけいおん内の時間と私たちの作品の認識はほぼほぼ接続されており平沢唯そのものがそのようなうんたん人間であり白痴的要素を多く含んでいることを確かとして平沢唯を感じてしまう。余り離れず近づかず上手く幻想と現実と想像のせめぎ合いを覆って平沢唯はその場所に存在する。
個人の歩んできた感覚事実記憶は全て個人のものでしかなくその域はでない。他者もまた自身の個人のそれを確かに保っておりただ所縁のない他者と存在を共にせねばならない場合、また自身のそこまで来るのに大事に保ち強く発露しなければならなかった個人のそれは阻害できない。つまり他者の感覚事実記憶を自らの感覚事実記憶として挿入し自身を他者のアイデンティティとして存在させることなどできないのだ。その場所、けいおんだと桜ヶ丘高校並びにけいおん部に所属するために必要な個人のアイデンティティそれ自身を揺らがせ他者の者を自身のアイデンティティと強く共存させようとしたならばけいおんで描かれる立地は不可となる。それが故平沢唯は個人の上のちょっとしたキャラとしてけいおんに存在することとなる。それを平沢唯は望んでいるだろうし(少なくとも作品内では)周りもまたそれを同じ。だからけいおん部は破滅的道に進むことなく活動し続けられたわけだ。
ただ連続して阻害することなくけいおんは存続するとはなかなかだ。画面外では色々と逡巡、いわゆる青春の影とやらが進行していたとしても彼女たちはけいおん内では絶対に表出させない。それもさせないじゃなくて当たり前の話のように。
けいおん内では必要とされるのはふわふわであったりほのぼのであったりだけであるがだからと言って他のものが要らないわけではない。それはしっかりと其々の内部に収納されてその上で世界は保たれている。平沢唯平沢唯という個人線を持っているしその他のキャラもまた同じだ。でも今彼女たちが過ごしたい空気はそんなものではなくこのほのぼのとした空気なのだ。だからけいおん部にいてお茶をして楽器を弾く。その時間がただ大事、大切。そしてそれは他の何かと共にそこにあるだけなのだ。無理して話さない滞在しない。ただ切り取られた彼女たちの時間は無理な時間じゃない。そういうものだから緩やかほのぼのなんでしょう。うん。

平沢唯を掴めない。平沢唯を名付けるならなにが適切であろうか。
「天然。ドジっ子。あほの子」
こういう言葉もありだがもっと別の彼女に適切な言葉を与えたい。どんなものにもわたしはそう思い平沢唯にも例外なく感じ初視聴から四年経った。
残念ながら私は何事にも適切な言葉を与えられず平沢唯にも同一で結局は平沢唯平沢唯でしかないという結果に落ち着いた。言葉の連続から産まれる心象を嵌めたり大きな概要で説明したりじゃなくて間違いなく彼女を指すそんな言葉は元からない。僕がしたことはそこにある。けいおん!で映されている。平沢唯平沢唯だ。それ以外の何者でもない。
そんな平沢唯、怪物的な平沢唯を人間であるか神であるのか確かめるために私はけいおん!一期のDVDをps4に与え視聴した。けいおん!を真面目に観るのは久しぶり。一年か二年ぶりの帰還だ(たがが三度四度しか視聴していないけいおん
けいおん!は人間だ。間違いなく人間だ。
けいおん!は総てを限りなく同じ目線、けいおん部一同の目線で世界が映し出されている。平沢唯もその一人だ。
平沢唯けいおん部の平沢唯でしかなくそれ以外の何者でもない。それに関連する彼女たちの空気を破壊する要素は彼女たちの感覚では表出しない。これは彼女たち以上に作り手側の意向だ。
自分は自分を解らぬが敢えて一つ自身の目線を云うならば製作者もどきと云うのが一番正しいのであろうからこのけいおん!もまた作者という集団の個体から映し出される醸し出される世界をただ観ている。
平沢唯と愉快な仲間たちは其々に性格と人生を持っている。ただけいおんの中で語られる、語りたい場所はそこではない。彼女たちが育んでいる大切な時間、それは全ての中の一つに過ぎない、えらくたいそうではない、それを切り取ったドキュメント。曲がっていようが停滞していようが彼女たちの中で確かに刻まれている時間を画面に表す。その空気自体を高く高く保って阻害せず繋げていく。彼女たちの可能性の中で選ばれた時間。田井中や平沢等はこの映像を観て何を感じるのだろうか。もっと違うものも在ったんだよ。そう感じることは間違いない。でも作り手は彼女たちからこの空気を感じ取った。切り取った。だからけいおんはこういう世界になった。けいおん部、一人一人其々の歴史の中で一つの場所に集まりお互いに空気を阻害せずに楽しく笑って暮らせる場所、其々がどう考えていようが、製作者はそう考えた。そうしてけいおんけいおんになった。これでしかないけいおんになった。
けいおんでしかなくなったけいおんでは平沢唯は掴めにくい。平沢唯は限りなく土壌の上でほんわかさんの域を越さない域でカメラにコントロールされている。そんな氷山の一角な唯を想像はできるが名付けるのは傲慢だ。だから私は平沢唯に名前をつけず平沢唯平沢唯それでしかないと感じる。
空気は切り取られる。高い位置で端のけいおん部の空気。幾多の彼女たちの一部、されど大切な時間。けいおんっ!。それは個人の人生を持つ彼女たち其々の関わり合いから産まれた一つの時間にカメラを置いて写し取ったドキュメントだ。